理魂工才

2007/11/01

東海大学 理学部 情報数理学科 古山恒夫

私は工学部出身でありながら理学部に籍を置いている。開発工学部から理学部に異動したと聞いて古い友人がからかい半分に「大丈夫ですか?」と言ったことは今も忘れない。ただ、大昔、ほんの一瞬であるが数学を志そうと思ったことがあったり、大学院に進学しても研究室に顔を出さずに数学の本を読みふけっていたりしたことがあったので、理学的な魂は多少残っている(つもりである)し、研究でも大学の教養レベルではあるが数学を応用するテーマに取り組んでいるので、まあ許してもらえるのではないかと思っている。

そのような経緯から、理学と工学の違いを意識することが少なくない。学生には折に触れ理学と工学の違いは何か、と問いかける。これは情報数理学科の学生でも卒業すると大半は「工学」の世界に身を投ずるため、その違いを早くから意識させようと思っているからである。理学の目的は真理の探究であり、工学の目的は世の中の役にたつものを作るための技術を開発することであるというのが私の答えであるが、そのときに引き合いに出すのが2002年度に日本人で同時にノーベルを受賞した小柴さん(ノーベル物理学賞)と田中さん(ノーベル化学賞)である。 小柴さんの業績は理学的業績、田中さんの業績は工学的業績と考えてよいだろう。よく知られているように、小柴さんは岐阜の山奥の地下に大規模な装置を作って超新星からのニュートリノを検出したことが受賞の対象となったが、小柴さん自身が述べておられるようにこれは世の中の役には立たない。真理の探求の点で功績があったことが認められたわけである。 一方、田中さんの受賞は、「生体高分子の同定および構造解析のための手法の開発」によるもので、方法そのものは有用であるが、原理を完全に解明するまでには至っていないらしい(田中さん自身が書いておられたのを見た記憶がある)。つまり、真理は必ずしも明確でないが役に立つ方法である、というわけである。

10年ほど前に友人のベンチャー企業に顔を出して、複数枚の2次元の写真から3次元物体の復元を行う仕事の手伝いをしたことがある。理論式は難解ながら大変美しく、これを眺めると誰でもすぐに3次元物体を復元できるように思えた。しかし、現実は厳しく、理論通りのプログラムを作っても(私が作ったわけではないが)それだけでは思うような3次元物体は復元できなかった(現在では研究が進んで当時よりは容易に3次元復元ができるようになっているらしい)。復元したつもりの物体が「必ず」ひしゃげてしまうのである。原因は画像にのるわずかな誤差の影響にあり、その影響を排除するためにはさまざまな工学的工夫が必要であった。 もともと3次元復元の理論、これは実用目的が明確であるという点で「工学的理論」とでも言うべきものであるかもしれないが、これを理解するためには、射影幾何学や線形代数の数学の知識が不可欠である。それ以外に誤差の影響を少なくするために統計学の知識も重要である。しかし、3次元復元の理論や統計学を知識として知っているだけではだめで、それをベースに多くの試行錯誤に基づく工学的工夫を加えていく必要があったのである。 もっと身近には、私の主な研究テーマのひとつである、ソフトウェア信頼度成長モデル(SRGM)でも同様のことが起こる。これはソフトウェア開発のテスト工程で検出した欠陥数の累積値の傾向から、そのソフトウェアに含まれている総欠陥数を推定しようとするモデルであるが、理論式に従った曲線の美しさと現実の累積欠陥データとの乖離が大きくなることは少なくなく、人によっては、SRGMは役に立たないと言わしめるもととなっている。まだまだ、理論的洞察と試行錯誤を続ける余地がある。 もうひとつの研究テーマである、ソフトウェア開発プロジェクトから得られたデータの分析も似たようなものである。物理現象から得られるデータでも多くの雑音・外乱が重畳しているが、人間の手による「ソフトウェア開発」における雑音・外乱は、私のみたところ物理現象から得られるデータの比ではない。したがってデータの信頼度は高くない。おまけに、得られたデータは欠損値が多いという基本的な問題を抱えている。

私は「カオス状態」のわけのわからない世界から法則やモデルを導き出そうと考えることが好きなので、このようなデータが大好きである。囲碁や将棋も中盤の難所が一番好きであった(最近は実戦をしなくなった)。 とはいえ、このようなデータをもとに「法則」を発見し、「モデル」を構築することは難しい。だからといって役に立てばよいという「悪い意味」での「工学的」考え方から得られた結果は、多くの場合普遍性を欠く。「理学的」な考え方、すなわち「真理の探究」という意識のもとで「数学的な裏づけ」を持ったアプローチで問題解決にとりかかる必要がある。ただし、実際の問題解決にあたっては、数学的に厳しい仮定に拘り過ぎると、逆に問題解決のために使えるツールとなりえなくなる。その意味で「理魂工才」が重要であると考える。